2003-11-26 第158回国会 参議院 予算委員会 第1号
○海野徹君 私も父が軍人でおりまして、シベリアで三年間捕虜生活を送って帰ってきました。母親も同じ宿舎に住んでいましたから中国の東北地方を転々として命からがら帰ってきました。その二人が生存してくれたおかげで私は今日がある。だから戦争を憎みますし、テロのない社会を作りたい。しかしながら、テロとの戦いのために全世界が取り組んでいる。これは要するにそうだと思います。
○海野徹君 私も父が軍人でおりまして、シベリアで三年間捕虜生活を送って帰ってきました。母親も同じ宿舎に住んでいましたから中国の東北地方を転々として命からがら帰ってきました。その二人が生存してくれたおかげで私は今日がある。だから戦争を憎みますし、テロのない社会を作りたい。しかしながら、テロとの戦いのために全世界が取り組んでいる。これは要するにそうだと思います。
また、捕虜生活や軍人同様強制抑留され、医療に従事した仲間もまだ生存しております。彼女らの従軍は我が国の兵と同等であると思っておりますが、戦後五十年経過し、最近、平均年齢を見ますと七十八歳ともいう高齢となってまいりましたが、彼女らの戦後はまだ終わっておりません。 この件に関する質問は過去にもたびたびございました。
とにかく私は、軍隊や捕虜生活の中で、本当に飢餓というものを経験したからわかるのですよ。そのときに、本当に腹が減ってどうにもならないときに、立派な新品の服をもらうよりも一切れのパンをもらった方がありがたいのです。忘れられないのです。それほど食べ物というものは人間の心に深く刻み込まれていくのですよ。愛情が刻み込まれていくのです。
私どもの同じ年ごろの連中が、これはごくわずかですけれども捕虜生活をした。そうしてアメリカの病院にほうり込まれたら、看護婦さんは将校待遇であったと。ところが我が国の看護婦さんというのは、婦長さんぐらいかなり上にならなければ下士官待遇にもならない、かつての陸海軍の病院の話ですけれども。それぐらい位置づけが違ってきている。いわゆる専門職としての位置づけが非常に弱いと私は思うんですね。
○渡部(行)分科員 最後に、私自身捕虜生活をしまして、そういう法規を知らなかったから、捕虜としての権利を主張することができない。ソ連の国際法を無視したやり方についても、ただ捕虜には何の権利もないのだというような考え方で、向こうの言うなりにならざるを得ない。こういうことを考えると、これは大変な損害を受けていると私は思うのです。
技術者としていまの新中国、当時の八路軍、御本人はここで「パーロ軍と言っておりました」と言っておりますが、こちらの方の軍隊にすんなり捕虜の形になって、そして捕虜生活が七ヵ年。だから、満州に合計十年いたことになるのです。 さっき、いみじくも稻村総務長官が、女性の方であるが軍人と同じだとおっしゃっておりましたけれども、私にも経験がありますけれども、まさに同じことです。これは何ら変わらない。
この問題は、もうすでに申し上げる必要もないと思いますけれども、日赤従軍看護婦が戦時中召集されまして、行き先も知らされずに日本陸海軍病院及び病院船に配属され、その命令に従い、兵と同じ生活をし、終戦後長期抑留の身となり、軍人と同じく捕虜生活を送ったりしながら、昭和二十八年から三十三年にかけて帰国し、その後召集解除となった人たちの問題であります。
私たちは荷物をまとめて内地に帰りたいと思ったのが、そういうふうに上部の人の話し合いがあったんでしょうか、それから捕虜生活が七年続きました。合計満州におりましたのは私たちは十年でございます。 その八路軍に入ります前の一年間は、——戦争が負けてからの日本の私たちは、陸軍病院時代、陸軍から雇われている陸軍看護婦さんと同じ仕事をしておりました。
それからもう一つ、先ほど関係の大臣にも列席の上でお聞きになりました日赤の看護婦さん、特に戦争中全く軍人と同じように召集になって戦地で軍属として働き、しかも長い間抑留され、それも単なる捕虜生活ということじゃなくて中国の病院に勤務をする、そういう活動をしてきたわけであります。これに対して、たまたま帰ってきて公務員になった者は救われている。
こういうふうに、当初はその郵政省、その次は軍隊、抑留生活、捕虜生活をして、そうして今度は郵政省にまた入って、今度は地方公務員になってそこでやめた。その間に右肺を切除しなければならないという人生をたどってきている。
その間にソ連に行っている途中で、捕虜生活をしている間になくなった方の家族の人、こういう人たちの取り扱いというものは相当漏れている人があると私は思うのですがね。
私の場合、長い捕虜生活の間で、それに手紙でそんなことが書けません。ただ元気だ、もうすぐ帰れる、そのくらいしか書けない。生活のこととか、ソ連はどうだとか、また両親なんかでも、今日本はこうだとかいうようなことは書けない。書いたところで、結局手に入らないわけです。そういうわけで、その長い間、新聞、ラジオなんというのはほんとうに一部です。
そうしてあなたがつけ加えて言われたときに、どう言われたかというと、私たちの捕虜生活十年間の体験を通じて、とにかくソビエトというところは、強く出ていけば折れてくるし、こちらが弱く引き下ると強く出てくる、こういう一つの理念のもとに今度の強力な請願運動が展開されたということをあなたはおっしゃったと思います。
○野澤委員 私は捕虜生活をした男ですが、引き揚げの委員会にはめったに顔出ししないので、今のお話を聞いておりますと、両方ともほんとうのことを言って、両方ともまた勘違いをしている部分がたくさんあると思うのです。それで、今後は努めて私この委員会に参りまして、正しく御理解を願う方が国民の利益じゃないかと思います。
実際これは国会議員としては当然かもしれぬが、私もかつてシベリアの捕虜生活を三年した男なのです。その捕虜の手紙を中心にして、これだけの議論をしなければならぬところに、日本国民の情なさがあると思う。
○森島委員 もう一つの点は、捕虜生活の間にロシヤの婦人と非常に懇意になって、むしろ敗戦後の日本に帰るよりはと、みずから進んでソ連に残存した人も相当におるということは事実でございます。
出所しても直ちに本国へ帰れない、さればといって東京で釈放されても知り合いもない、特技もない、長年の出征並びに捕虜生活でたくわえもない、そういう意味で仮釈放の時期が来ておっても仮釈放ができない者もある。こういうことがわれわれ議員の間にも多数の陳情があるのであります。
また迎えに行く人も、ほんとうに桟橋に上ってこられたら、涙をもって迎える、私だつて、わずかな期間でありますが、たつた二カ月の間朝鮮で捕虜生活をしてきたが、その二カ月の間というものは、ずいふん待ち遠しかった、毎日毎日家へ帰ること以外何にも考えていなかった。たつた二カ月ですらそれだけなつかしい内地なのです。
それから、個別帰国と申しましても、たとえば軍人、軍属あたりの捕虜生活を送つておる者があるかないか、その点もつまびらかにいたしませんが、そういう連中は個別帰国は多分できないだろうと思いますが、そういう点と、それから、あそこで昔の支那に行つておつた連中が帰りたくなつてだんだん引揚げて来る、こういう連中がおもに個別帰国の大体の対象となつて来るのだろうと思いますが、そういう点は、中共の内部はよくわからぬものですから
こういう引揚げの対策が失敗しておるりて、これをおおい隠すために、捕虜生活に関するありとあらゆるデマを捏造して来ておる。三十七万のデマはこうした失敗をごまかすための何ものでもないと思います。すなわち未復員者給与法の適用件数は四万三千にすぎないのであります。さらに政府は再三の要求にかかわらず、三十七万人の氏名、県別をいまだに発表しておらないのであります。
又日本においてもその大きな流れを排除することはできない、この渦の中に今翻弄されているというのが日本の姿ではないかということも、私共はこれを捕虜生活中に感じたのであります。
が併しながら我々捕虜においては同じ同国人であるから、お互いに愉快に、お互いに助け合つて捕虜生活をしようじやないか、こういう気持が充溢しておりました。