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35件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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2003-11-26 第158回国会 参議院 予算委員会 第1号

海野徹君 私も父が軍人でおりまして、シベリアで三年間捕虜生活を送って帰ってきました。母親も同じ宿舎に住んでいましたから中国東北地方を転々として命からがら帰ってきました。その二人が生存してくれたおかげで私は今日がある。だから戦争を憎みますし、テロのない社会を作りたい。しかしながら、テロとの戦いのために全世界が取り組んでいる。これは要するにそうだと思います。  

海野徹

1997-03-25 第140回国会 参議院 厚生委員会 第4号

また、捕虜生活軍人同様強制抑留され、医療に従事した仲間もまだ生存しております。彼女らの従軍我が国の兵と同等であると思っておりますが、戦後五十年経過し、最近、平均年齢を見ますと七十八歳ともいう高齢となってまいりましたが、彼女らの戦後はまだ終わっておりません。  この件に関する質問は過去にもたびたびございました。

南野知惠子

1989-11-22 第116回国会 衆議院 決算委員会 第6号

とにかく私は、軍隊捕虜生活の中で、本当に飢餓というものを経験したからわかるのですよ。そのときに、本当に腹が減ってどうにもならないときに、立派な新品の服をもらうよりも一切れのパンをもらった方がありがたいのです。忘れられないのです。それほど食べ物というものは人間の心に深く刻み込まれていくのですよ。愛情が刻み込まれていくのです。

渡部行雄

1989-06-20 第114回国会 参議院 社会労働委員会 第4号

私どもの同じ年ごろの連中が、これはごくわずかですけれども捕虜生活をした。そうしてアメリカの病院にほうり込まれたら、看護婦さんは将校待遇であったと。ところが我が国看護婦さんというのは、婦長さんぐらいかなり上にならなければ下士官待遇にもならない、かつて陸海軍病院の話ですけれども。それぐらい位置づけが違ってきている。いわゆる専門職としての位置づけが非常に弱いと私は思うんですね。  

山本正和

1983-03-04 第98回国会 衆議院 予算委員会第二分科会 第1号

○渡部(行)分科員 最後に、私自身捕虜生活をしまして、そういう法規を知らなかったから、捕虜としての権利を主張することができない。ソ連国際法を無視したやり方についても、ただ捕虜には何の権利もないのだというような考え方で、向こうの言うなりにならざるを得ない。こういうことを考えると、これは大変な損害を受けていると私は思うのです。  

渡部行雄

1978-04-13 第84回国会 衆議院 内閣委員会 第12号

技術者としていまの新中国、当時の八路軍、御本人はここで「パーロ軍と言っておりました」と言っておりますが、こちらの方の軍隊にすんなり捕虜の形になって、そして捕虜生活が七ヵ年。だから、満州合計十年いたことになるのです。  さっき、いみじくも稻村総務長官が、女性の方であるが軍人と同じだとおっしゃっておりましたけれども、私にも経験がありますけれども、まさに同じことです。これは何ら変わらない。

大出俊

1978-02-27 第84回国会 衆議院 予算委員会第一分科会 第1号

この問題は、もうすでに申し上げる必要もないと思いますけれども、日赤従軍看護婦が戦時中召集されまして、行き先も知らされずに日本陸海軍病院及び病院船に配属され、その命令に従い、兵と同じ生活をし、終戦後長期抑留の身となり、軍人と同じく捕虜生活を送ったりしながら、昭和二十八年から三十三年にかけて帰国し、その後召集解除となった人たちの問題であります。

山原健二郎

1975-11-06 第76回国会 参議院 内閣委員会 第2号

たちは荷物をまとめて内地に帰りたいと思ったのが、そういうふうに上部の人の話し合いがあったんでしょうか、それから捕虜生活が七年続きました。合計満州におりましたのは私たちは十年でございます。  その八路軍に入ります前の一年間は、——戦争が負けてからの日本の私たちは、陸軍病院時代陸軍から雇われている陸軍看護婦さんと同じ仕事をしておりました。

岡松八千代

1975-11-06 第76回国会 参議院 内閣委員会 第2号

それからもう一つ先ほど関係の大臣にも列席の上でお聞きになりました日赤看護婦さん、特に戦争中全く軍人と同じように召集になって戦地で軍属として働き、しかも長い間抑留され、それも単なる捕虜生活ということじゃなくて中国病院に勤務をする、そういう活動をしてきたわけであります。これに対して、たまたま帰ってきて公務員になった者は救われている。

片岡勝治

1958-10-30 第30回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号

私の場合、長い捕虜生活の間で、それに手紙でそんなことが書けません。ただ元気だ、もうすぐ帰れる、そのくらいしか書けない。生活のこととか、ソ連はどうだとか、また両親なんかでも、今日本はこうだとかいうようなことは書けない。書いたところで、結局手に入らないわけです。そういうわけで、その長い間、新聞、ラジオなんというのはほんとうに一部です。

平出盛正

1956-03-26 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第9号

そうしてあなたがつけ加えて言われたときに、どう言われたかというと、私たち捕虜生活十年間の体験を通じて、とにかくソビエトというところは、強く出ていけば折れてくるし、こちらが弱く引き下ると強く出てくる、こういう一つの理念のもとに今度の強力な請願運動が展開されたということをあなたはおっしゃったと思います。

三鍋義三

1956-02-24 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第7号

野澤委員 私は捕虜生活をした男ですが、引き揚げの委員会にはめったに顔出ししないので、今のお話を聞いておりますと、両方ともほんとうのことを言って、両方ともまた勘違いをしている部分がたくさんあると思うのです。それで、今後は努めて私この委員会に参りまして、正しく御理解を願う方が国民の利益じゃないかと思います。

野澤清人

1955-05-10 第22回国会 衆議院 社会労働委員会 第7号

また迎えに行く人も、ほんとうに桟橋に上ってこられたら、涙をもって迎える、私だつて、わずかな期間でありますが、たつた二カ月の間朝鮮捕虜生活をしてきたが、その二カ月の間というものは、ずいふん待ち遠しかった、毎日毎日家へ帰ること以外何にも考えていなかった。たつた二カ月ですらそれだけなつかしい内地なのです。

岡本隆一

1954-03-02 第19回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号

それから、個別帰国と申しましても、たとえば軍人軍属あたり捕虜生活を送つておる者があるかないか、その点もつまびらかにいたしませんが、そういう連中個別帰国は多分できないだろうと思いますが、そういう点と、それから、あそこで昔の支那に行つてつた連中が帰りたくなつてだんだん引揚げて来る、こういう連中がおもに個別帰国の大体の対象となつて来るのだろうと思いますが、そういう点は、中共の内部はよくわからぬものですから

福田喜東

1950-04-30 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第29号

こういう引揚げの対策が失敗しておるりて、これをおおい隠すために、捕虜生活に関するありとあらゆるデマを捏造して来ておる。三十七万のデマはこうした失敗をごまかすための何ものでもないと思います。すなわち未復員者給与法適用件数は四万三千にすぎないのであります。さらに政府は再三の要求にかかわらず、三十七万人の氏名、県別をいまだに発表しておらないのであります。

梨木作次郎

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